旧金桜神社石鳥居と御岳道について

2015年10月11日 07:36

山梨県甲斐市「旧金桜神社石鳥居と御岳道について」という記事をご紹介します。
 https://www.city.kai.yamanashi.jp/docs/2013120300057/

現在、敷島総合公園内に建立されている石鳥居は旧金桜神社一の鳥居と伝えられ、吉沢地区内の田圃の中に倒伏していました。
昭和59年(1984)に発掘調査が行われ、貴重な文化遺産のため保存上現在地に移築復元されています。
金桜神社は後方の山岳信仰の地である金峰山の里宮として勧請され、その登拝道を「御岳道」と呼ばれていました。
御岳道には九つの道筋のうち、甲斐市内には吉沢口と亀沢口の二筋があったと『甲斐国誌』に記述されています。
特に旧金桜神社石鳥居が建てられていた吉沢口は御岳道の正道とされ、古くから御岳道の中心的な道筋として使われ、鎌倉期の白輿もこの地に残されています。
吉沢口は「上道」と「外(下)道」(以下「外道」)の二つのルートがあります。
はじめ上道が参道として成立していましたが、下り道として外道が整備され、その後、外道が主要な道筋となったようです。
江戸時代には、浮世絵師歌川広重も吉沢口から金桜神社へ参拝し、その風景をスケッチに残しています。
一方、亀沢口は、距離は吉沢の道筋より長いものの、勾配が緩やかなため通行が安全で容易に参拝できる道筋として利用されていたようです。
江戸時代後期になると新たな参道が設けられ、吉沢のルートは使われなくなりました。
旧金桜神社石鳥居 県指定有形文化財(建造物) 旧金桜神社石鳥居 『甲斐国誌』に旧金桜神社石鳥居のことについて「古昔ノ第一華表ハ亀沢ノ村東御霊若宮(今姫宮ト云フ)ノ辺リニ石華表折レテ荊榛ノ中ニ倒ル~」と記述があり、江戸時代中期頃には既に鳥居は倒伏していたことがわかります。 鳥居は角閃石石英安山岩製の明神鳥居で、高さ3.12メートル、柱間3.03メートルの規模をもち、柱径約57センチメートルを測ります。
笠木石、島木石は中央部で接続する二つの石材から創り出され、笠木石には優美な反りがあり、木口は島木石を垂直に切っている。
貴は太く、その中央部に正方形の額束が立ててあり、全国的に数少ない鎌倉時代に遡る貴重な文化遺産です。

 
 
 
白輿 国重要文化財(工芸品)
白輿は一般的に装飾を施さない素木のままの板輿のことをいいます。 
この白輿は承久3年(1221)に起こった「承久の乱」により順徳上皇が佐渡へ配流となる際、越後寺泊(新潟県長岡市)より祈願のため金桜神社へ勅使を遣わし奉幣(ほうへい)の際に幣帛(へいはく)を乗せた輿と考えられています。 
簡素な構造ですが檜や栂など上質な部材を使用し、製作に際しても優れた技法を駆使し様式から鎌倉期に製作されたものとして重要なものです。 
白輿の大きさは、屋形の間口0.89メートル、奥行0.95メートル、高さ1.02メートル、轅(ながえ(担ぎ棒))の長さ3.48メートルです。
 
羅漢寺
羅漢寺は現在曹洞宗寺院ですが、改宗以前は真言宗寺院として真言密教の御岳信仰による修験道場の拠点として発達した寺院です。
この寺院は慶安4年(1651)に火災のため建物が焼失し現在の地へ移転していますが、もとは羅漢山山腹にあり北山筋の高野山(『甲斐国誌』)と称され、羅漢寺山の三岳の岩窟に阿弥陀(一の岳)、釈迦(二の岳)、薬師(三の岳)を祀るとともに、五百羅漢像(県指定文化財)も併せて祀られていたといわれます。 
昭和60年(1985)、旧羅漢寺寺域の発掘調査により本堂などの遺構や陶磁器などが確認されています。
なお、木造阿弥陀如来像・五百羅漢像は火災を免れ現在県有形文化財(彫刻)に指定され、樹齢は不明ですが旧羅漢寺寺域内にあるカキの巨木は、甲斐市の天然記念物に指定されています。